★関西ネタです。
【2019年3月某日】
さて、高野街道なんだけど
前回、神回だったからね。
何だか満足というか、妙な納得感はあるものの、まだ終わっていない。
それどころかここからがむしろ本番。
いよいよ高野山へ向かって本格的な登りとなるんだよね。
ここまで来ると朝、社宅でのんびりしている状況でもなく、大阪メトロと南海高野線を乗継、九度山への支道が分岐する学文路駅に到着したのは10:30。

学文路駅の階段を下りれば真ん前の道が通が国道370号線で、そこには世界遺産マークを付した案内板が誇らしげに設置されている。

前回の逆で、国道を150mほど戻ったところから高野街道京大坂道が南に分岐。
「いきなりかよ~」と溜息出るほどの上り坂だ。
左隅に、学文路八十八地蔵という名の2基の祠があるものの、圧倒される上り坂が延々と続く。

距離にすればスタートしてまだ500mぐらい?
でもすでに汗が噴き出してくる。
この道は県道118号ということらしいが、しばらくして緑に統一された案内板に従い左斜めのうんざりするほどの分岐道に入り、途中に見えてきたのが「西光寺」。

一気に登ってきたおかげで見下ろす風景は素晴らしい。
このお寺自体も歴史あるようだけど、一角にある苅萱堂には、人魚のミイラなんてものが大切に保管されているとかで、事前予約しておけば誰でも観覧できるらしい。
コスモタイガーも興味がないわけではないが、トレーニング中だし、まだ1kmも走ってない(笑)
いきなりこれだけの登りということもあり、先のことを考えるとちょっと焦ったりする。
ということで手だけ合わせて先を急ぐ。
再び県道と合流し、500mぐらいかな?
緑の案内板があって、右斜めの狭い私道を行くように指示している。

指示通り右の道へ。
あとは道なりに登る一方で、やがて「紀ノ川フルーツライン」と称する立派な道路の上を渡ることになる。
さらにきつい登りを進むとやがて古い石柱がポツンと立ち、左の道を案内している。

それにしても標高がどんどんあがり、明らかに気温が下がっている感じだ。
そりゃそうだよね、まだ3月だもん。
民家の合間を縫うような、軽トラ1台がやっとの細道だ。
登り切ったかな?と思ったところにあるのが高野街道六地蔵第3地蔵尊。
昔から疲れた旅人を見守ってきたに違いないが、シャメする余裕なく、素通りする。
やがて少し広い道にぶつかり、十字路となっている。
右側に大きなトンネル(ゆめさきトンネル)があるのが目印だ。
そのまま直進すればやっぱり登り坂が再開( ;∀;)
誰もいないが小さな児童公園があって、そのまま直進が正解だ。
左手に「大師の硯水」という井戸があるが、今は叢に隠れるようになっていて、飲めないだろうな。
広い道に出るものの、斜めに直進する道がある。
ま、この広い道は車用に後からできたものだもんね。
かつてはここをひっそりと1本道だったんだね。
ここまで一気に登ってきてかなりの高度で、たまに見通せる風景は素晴らしい。
もったいないけどこの辺りからいったん下る。

ここで小さな案内板に従い、左の小道(土道)に入り、一気に駆け上がるんだよね。
距離は大したことないけど、結構な峠になっていて、一瞬山の中に迷い込んだかと思ってしまう。
そして今度は一気に下る。
「河根(かね)」という静かな集落に出たらしい。
アスファルトになったと思ったら左手に「河根丹生神社」と「日輪寺」がひっそりと並び建っている。

さすがにここまで神仏分離令、いわゆる廃仏毀釈の目は届かなかったんだろうね。
軽トラ1台がやっとの旧街道沿いにひっそりと人家が並ぶ静かな集落となっているが、かつては河根宿という高野街道の宿場町だったんだね。
本陣中屋旅館がいまもひっそりと残されている。

それにしてもこの狭い山間の集落に、宿や茶屋が建ち並び、10台以上の駕籠(今でいうタクシー)が客待ちをしていたというから、ちょっと信じられないね。
下った先には赤い手すりが印象的な千石橋があり、その手前に古い道標が建っていた。
二里道標ね。

千石橋の下を流れるのは丹生川で、綺麗な水が流れる姿は何気に足を止めて見入ってしまう。

渡り切ったところはT字路になっており、ここは地元の有志?の方が設置してくれたであろう道標が右を指しているので、指示通りに。
ここまでも随分登ったけれど、さらにここからは本格的な山道だ。
橋を渡ってから20分近く。
周囲に建物もなく、誰にも会わない。
見どころも特になく、完全に森の中のトレラン状態。

どこまで続く?
でもまだ舗装してあるだけマシかもね。

途中、第六地蔵尊の5番目と6番目があったけど、シャメする余裕もなく、思考停止状態(笑)でひたすら登る。
そうそう、あくまでもこれは真面目なトレーニングだから(笑)
のどかに千石橋を渡ってから30分以上の格闘?の末に道は一瞬平坦に。
そこにあるのが「日本最後の高野のかたき討ち」の案内板。

要するに、幕末の頃に赤穂藩で勃発した「内輪もめ」ね。
1862(文久2)年、尊王攘夷派の下級武士により、当時の赤穂藩の内政を実質的に担っていた、家老の森主税と、参政の村上天谷が暗殺された。
その村上さんの息子4人が、かたき討ちと称して9年後、下級武士たちをこの地で斬殺したとか。
村上4兄弟が、かたき討ち前夜、念入りに打ち合わせをしたのが、さっき通ってきた河根宿の本陣、中屋旅館だったとされる。
とはいえ、9年後といえばすでに世は変わり、明治になってたからねぇ。(明治4年)
新政府がビックリして、もうこんなことが美化されてはアカン!ということで、その2年後に「かたき討ち禁止令」が発出されたきっかけになったとされる。
それにしてもかたき討ちというと、赤穂藩はよく登場するねぇ…。
それにかこつけてるのもあると思うが、この一連の騒動を、日本最後のかたき討ち、としているんだね。
もっとも、元禄の方のかたき討ちは、あれは果たしてかたき討ちと呼べるものなのかどうか、コスモタイガーは疑問ではあるけどね(※西国街道編4参照)
おっと、こんな森の中の1本道で、そうそうのんびりしてられないな。
足を進めることにしよう。
ここからまたひたすら登り続け、どんどん山深くなっていく中、ひとり黙々と走り続けるコスモタイガーであった。
〈続く〉




























































